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【憲法 人権】今考える、表現の自由とプライバシーの権利ー京アニ放火事件での被害者の実名報道を通じて

新聞

当該事件(2019年7月18日)から二年が経過いたしました。

この間、日本はコロナ感染の拡大防止にちなんだ飲食店に対する休業要請ひいては国民に対する外出自粛、
最近では静岡県における土砂災害等において、様々な報道がなされております。

読者の皆様は、このように日々更新されていく報道を通じて何を考え、生活していらっしゃるでしょうか。

さて私は、福岡市西区今宿駅前の藍洋塾にて、社会科を担当しております、長澤と申します。

このように世の中が激動する時勢であるかに拘わらず、私は普段から授業にて、「少しでもいいからニュース・新聞を見よう!」と受講生達に声掛けしており、
また私がこれまでのブログの中でご家庭での会話を重んじてきたことから(ゲーム依存対策参照)、

マスコミ各社が行った当該事件での被害者の実名報道をベースとした記事にしたいと思います。

記事にする動機は、ニュース・新聞の報道の態様や内容に相当の公平性・妥当性がなければ、私の奨励に従いそれらを見た受講生が納得できない点や、御家庭での会話においても結論的にしっくりこない点が出てくる可能性があり、

そしてこれまでの私自身の言葉に責任を負う意味でも、記事にしなければならないと思ったところにあります。

また私は昨今、例えばコロナワクチンの接種の是非について、報道ひいてはそれについてのコメンテーターの意見において、偏りが多いように感じております。

この点、我々ひとりひとりが自分の頭でしっかりと考え行動することが、日本国憲法で保障されている個人の尊厳(13条)を全うすることになると思い、この記事を通じて読者の皆様に報道に惑わされることなく、自らが信じる道を生きて欲しいとも思っております。

どうぞよろしくお願いします。

表現の自由について

意義

まず日本国憲法は、すべての国民は個人として尊重されること(13条)を出発点として、第三章にて人権カタログを設けております。

また憲法は、基本的人権を保障するものであるからこそ、国内の最高法規とされています(基本的人権の本質が97条にて「第10章最高法規」の中に規定されていることがその根拠と解されております)。

そして、各種人権カタログの中でも極めて重要なものと解されているのが、表現の自由(21条)です。

これには個人が言論活動を通じて自己の人格形成を発展させること(自己実現の価値)、
言論活動によって国民が政治的意思決定に参加すること(自己統治の価値)、という二つの意義があります。

時代における変遷-報道の自由の誕生

ただ何かを表現するには、その源となる情報が必要であって、国民はそれをどのようにして手に入れるのかが、問題となります。

この点インターネットの普及が広まる以前では、巨大な情報収集力と発信力を独占するTV・新聞等のマスメディアが情報の送り手として、一方の国民は情報の受け手と固定されていました。

そこで表現の自由は、国民の「知る権利」として再構築される必要が出てきたのです。

こうしてマスメディアによる報道の自由ひいては取材の自由は、国民の「知る権利」に奉仕するものとして、憲法21条で保障ないしは十分尊重に値すると解されるようになりました(博多駅テレビフィルム事件、最高裁決定参照)。

プライバシーの権利

このように国民の「知る権利」、またそれを支える報道の自由の重要性をいくら謳ったとしても、それは絶対無制約というもではありません(13条、「公共の福祉に反しない限り」)。

また憲法はもともと国家権力を規制するものではありますが(99条)、時代と共に報道による強大な社会的影響力を持ったマスメディアに対しても、憲法の趣旨は貫かれます(私人間効力)。

そこで、本記事の本題である京アニ放火事件での被害者の実名報道は、報道の自由の範囲内にあるといえるのかすなわち、被害者ひいては御遺族のプライバシー権を不当に制約するものではないかを、以下考察してまいります。

プライバシー権とは

情報化社会の進展に伴い、自分のことは放っておいて欲しいという(自由権的)側面から、

「自己に関する情報をコントロールする権利」に至ると解されています(根拠は13条の「幸福追求権」)。

実名報道の正当性

では一方の報道の自由の自由について、➀そもそも実名を発表した京都府警、➁その報道の内容、➂態様の三点に分けて述べます。

京都府警は「公益性」を強調

1、問題の所在
京都府警は「公益性」の説明の中で、匿名とすると憶測が飛び交う可能性を挙げ、よってマスメディアからの実名開示の要求に応じたかように記事は読めます。

しかしこの「憶測」とは、例えば亡くなっていない人が亡くなった、またはその逆の推測ということですよね。

とすれば、同府警の実名公表が報道の自由に資するものであったかは、被害者のプライバシーを一括りにして判断すべきではないと私は考えます。

そこで、当該事件のケガ人(生存者)を含む被害者のプライバシーについて、当該警察発表を受けての報道の態様を含めて場合分けしつつ、考察を続けます。

2、大前提
この点私は、仮に事件後間もなく、生きている方々が亡くなっていると報道された場合は削除・訂正を求めればよく、つまり生存者には「自己に関する情報をコントロールする権利」が残っていると考えます。

これに対して、お亡くなりになった方々の命は、報道の適不適にかかわらず、決して戻ることはありません。遺族の悲しみもこの先、消えることはないでしょう。

ならばせめて御遺族が被害者の「自己に関する情報をコントロールする権利」を受け継いだと考え、

かつ御遺族自身の報道されることなくそっとして欲しいとの意向(プライバシー権の自由権的側面)は憲法上、最大限に尊重されるべきであると私は考えます。

ただ御遺族様の中には、故人が携わった作品名や実名を挙げることで生きた証をこの世に残したいと考える場合もあるでしょうから、この点では警察当局や報道機関はその役割の一端を担うべき存在であるともいえます。

しかしながら私は、「公益性」を重視したからといって、報道機関の要求に応じて一律にかつ原則的に被害者の実名等を公表してよいとの理由にはならず、まずもって今回の京都府警の報道機関に対する実名発表が妥当であったのかには疑問です。

すなわち、被害者の人数や年齢・性別、役職等の公表に留めたとしても、事件の事実内容は伝わり報道機関の要求には足りた(国民の「知る権利」に奉仕できた)のではないかと思うのです。

3、小前提(警察vs報道)
このようなことから今後、公権力を持つ警察当局は、自らの発表後の報道のあり方によっては、被害者ひいては御遺族のプライバシー権を不当に制約する可能性があることをより強く認識し、報道機関への対処を考えていくべきだと
思います。

具体的には、例えば今日社会的な問題となっているあおり運転の事案においては、被害者の実名や年齢、煽られるに至った経緯(被害者の運転の態様)が報道されることは皆無に等しいですよね。

この点で、仮に当該事件の概要のほとんどが警察当局から公表されていているとするならば、結局我々は、それを受け取った報道機関の恣意的な判断による(被害者・加害者のどちらかに偏重した)情報の受け手に固定されていることになります。

しかし報道機関がこうだからといって、警察当局にどこまでの情報を流すかの裁量を認めてしまえば、自分らもしくは圧力を及ぼしうる関係機関に不都合な情報は出さないというような(忖度)体質に陥りやすくなることでしょう。

結局のところ、このような警察当局vs報道機関の構図を考えるにあっても、報道の自由ひいては取材の自由は国民の「知る権利」に奉仕するもの(前述の判例)ということが軸になければならないと考えます。

3、結論
つまり今後、警察当局と報道機関において絶妙なチェック&バランスが図られることによって、国民の「知る権利」が充実していく一方で、前述のようなプライバシー権ひいては個人の尊厳(13条)は憲法上、最大限に尊重されなくてならないと考えます。

今回の同府警の実名公表を見るに、「公益性」という点で報道機関と同調しただけのように思え、それは被害者ひいては御遺族のプライバシー権を不当に制約する結果を招くものであり、妥当ではなかったと考えます。

少なくとも同府警は、公表を望まない御遺族の意向は汲み取り、実名を伏せることはできたのではないかと思います。

報道の内容について

これについては、私の自宅購読紙が読売新聞なので、令和元年8月29日朝刊の内容にて考察してまいります。

同紙では、被害者の実名及び携わった作品名等の他に、立教大学メディア法の服部名誉教授のコメントが掲載されておりました。

①亡くなった方がどう生きてきたのか、
②事件にどんな背景があったのか、を社会全体が共有し、
③教訓を得る手だてとなる。

以上、同紙からの引用です。

私はまず①について、実名と作品名だけの一覧表で故人の生き様がわかるかのような表現が不適切で、何を共有すべきだといっているのかが不明瞭(仮に匿名であれば、社会は悲しみ共有することができないのか)と思います。

そして②については今後、事件の捜査や裁判の進展によって次第に明らかになっていくことで、それを共有していけばよいと考えます。

さらに③について、今回のような突発的な事件に対し何が教訓となるのか。恐らく被害者の方々は普段と変わりなく出勤し業務を行っていただけであって、事件に遭わないためには人からジェラシーを買うような仕事には就かず家でじっとしていろとでも言いたいのか、と甚だ疑問を感じました。

報道の態様について

以上のように京都府警、服部名誉教授は実名報道の正当性を説いているのですが、私のような反対意見をお持ちの方もいらっしゃると思います。

なのに何故読売新聞は賛成意見しか掲載しなかったのか、その報道の態様が公平性を欠いていると私は考えます。

そして、実名報道が今である必要があったかです。「事件を風化させることなく、故人が生きた証を残したい。そのためマスメディアを通じて、故人の名前や仕事内容を発表して欲しい。」と御遺族が願うならば、今すぐの実名報道は、大切なものだと思います。

しかし一方で、とにかく今はそっとして欲しいという御遺族の心情、ひいては悲しみを乗り越え自らの人生を新たに歩み出そうとする御遺族の気持ちを見守ることも大切なことで、誰も干渉してはならないと私は思います。

よって実名報道をすることで、被害者遺族の住所や名前が特定され、あらゆる情報機関の囲み取材や電話による取材の申し入れ等の可能性を考えれば、少なくともそれを望んでいない御遺族からの立場からは、事件からそう間もない現時点での実名報道は報道の自由の範囲内とはいえず、被害者ひいては御遺族のプライバシー権を不当に制約するものであったと私は考えます。

なお、上記の同紙の報道内容と態様につきましては私、翌日の8月30日、読売新聞西部本社(編集部)に電話にて問い合わせをしましたが、『記載内容に関するご意見をうけ賜るのみで、記事内容に対しての具体的な対応はできない。』との回答でした。

今後、マスメディアはどうあるべきか?

以上、京アニ放火事件に関するマスメディアの報道を公平性と妥当性がないと述べてまいりましたが、ならば今後のマスメディアはどうあるべきか、基本的人権たる「知る権利」を享受する一国民として、私の意見を述べます。

まず、マスメディアは‘原則実名公開の理論’を大義名分としているようですが、これは加害者にはおおよそあてはまることだと思います。

例えば容疑者が逃走中の場合、第二、第三の事件を引き起こす可能性もあるので、容疑者の実名や通称・容姿・予想される逃走経絡等、近隣住民に注意を喚起する意味で公益性ありと私は考えます。

一方で被害者の実名については、時期や社会通念に照らし報道すべきです。

例えば、災害で多くの死傷者が出た場合や、飛行機・列車等の旅客交通機関が絡む不特定多数が居合わせる事故の場合の直後は、関係各所と連絡が繋がりにくく、全国に存在する家族や関係者は一刻も早く安否を確認したいはずです。
このような場合を除いては、時期や態様等、充分に遺族の意向に沿う形での報道であるべきだと私は考えます。

今回の京アニ事件においては、被害者家族のみならずファンの皆様、また仕事関係者も、クリエーター方々の安否を心配なされた方も多いと思います。

しかし、その「知りたい」は御遺族の苦しみや悲しみに一歩下がるべきだったのではないでしょうか。時とともに明らかになってくるでしょうし、事件後そう間もない今はなおさら、御遺族に囲み取材等の二次被害が及ばないことをファンとして望むべきだと私は思います。

これは勿論、マスメディアに取材における倫理があればよいという理論が最初にありきで、それを期待できない現状では、「知りたい」人がいるという口実(思い込み)をマスメディアに与えるべきではないという意味です。

一方で警察当局もマスメディアの要求に応じる形ではなく、遺族の承諾の有無の下、自らのホームページにて実名を公開するのもよいと思います。

そしてマスメディアは時の流れ共に、御遺族様の意向に沿って特別番組を作ったり紙面で特集する等して故人の生きざまや功績を偲ぶべきだと思います。
これこそが、故人や御遺族だけでなくファンや関係者、そしてこれまで京アニの存在を知らなかった人の利益(公益)に叶うことであり、マスメディアが使命として欲しいところであります。

2021年7月となった今、「生きた証を知ってほしい」との趣旨で何人かの御遺族が受けたインタビューを、私も報道を通じて拝見いたしました。

改めてこの事件に対する憤りと悔しさを感じております。このような報道の態様に関しての記事を書く以前に、当該事件がなければ…と強く思っておりますし、誰がどんな記事を書こうと失われた命が戻ってくることはないからです。

話を戻し今後は、国民の「知る権利」を盾に、警察当局やマスメディア、またはファンや関係者という多数派が実名報道の正義を語るのではなく、被害者・御遺族の少数者の人権を出発点とし、当該報道の当不当を考えて欲しいと私は思っております。

そもそも人権という思想が、少数派からの発想という点に正当性の根拠を持つものなのですから。

まとめ

最後までご覧いただき、有難うございます。

以上京アニ実名報道をベースに、記事にしてまいりましたが、ここには前述のように、当塾の受講生に新聞の閲覧を勧めていることをはじめとして、そしてどのように情報を受け取り、自分の人生にどう活かして行くのか、すなわち情報社会を生き抜く力(当塾の教育理念)の一つの例になればとの想いも込めました。

今は、いつあなた自身、またあなたが大切にしている人に何が起こるかがわからない世の中になっているように思います。

前述、新型肺炎に因る政府緊急事態宣言に伴う休業要請にて、私は改めてこのことを感じました。

知識や思考が必ずしもあなたの生命を保障するものではありませんが、何かあった時や、その後の人生を生きる術となることもあるでしょう。

また、そのように考えることができれば今、目の前で辛く見えていたり、遠く離れて見える勉強が、そうは見えなくなるかもしれません。

私たちが今、自分の意思さえあれば、いつでも、どんな形でも勉強を始められる環境にいるということは、とても尊いことだと思います。

いち学習塾の責任者としていえることは以上でございます。

京アニ事件にてお亡くなりになくなられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
そして、御遺族の方々に謹んでお悔やみを申し上げます。

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長澤 倫康 (ながさわともやす)

藍洋塾の代表者兼、文系科目の担当をしています。 司法試験受験を重ねる傍ら学習塾に勤務し、子供達とふれあう中で教育に熱意を抱き、2012年に福岡市西区今宿駅前で開業しました。 現代の子供達に無限の可能性を感じつつも、日々起こる様々な問題に対し実力を発揮できていない実情を、社会に問いかけるべくブログを展開してまいる所存でございます。

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