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【中学 国語】今、保護者様に読んで欲しい現代文ーインスタ・Facebook風潮を見直す

残暑お見舞い申し上げます。読者の皆様、いかがお過ごしでしょうか。

今回は、前回記事のテーマ【中学古文】が意外にも大人の方々に反響がありましたので、これに引き続き現在の中学生がどのような題材(現代文)を素に、入試等で国語の学力を問われているのかついて、保護者様向けの記事にしたいと思います。

この記事を読めば、国語の得点のみならず、現代において御子息の成長過程をどう見守っていくかのヒントの一つを得ることができるでしょう。

私、福岡市西区今宿駅前の藍洋塾にて国語を担当しております、長澤と申します。現在、夏期講習中でありますので、実際にそこで取り上げました論説文(出典は不明)と解説講義に沿って本記事を進めてまいります。

今回も、宜しくお願いします。

話のテーブルを想定しよう

 旅行に出て珍しい景色に接したり名所旧跡をたずねたりした場合、ろくに景色を見もせず、訪れているところがどういうところなのかを考えもせずに、はじめからむやみやたらに写真を撮る人がいる。
見るべきものはカメラに収めたのだからもう見る必要がない、というかのようである。
景色なり名所なりを見てどう感じたか、その感動や感想こそ大事なのに写真に撮ったから見なくてもいいというのでは、写真そのものに意味がないことになる。
カメラの便利さが現実の経験を浅薄なものにしかねない。だからカメラは必要最小限に用いるのがよいのである。

 はい、ここまでが第一段落です。
 
文章の出だしは、筆者がこれからどういう話を読者にしていこうかという、例えて言えば、手品をする時にあるテーブルのようなものです。
「ガラスのコップに、普通、五百円硬貨は貫通しませんが…」というマジシャンの語りによって、お客さんは「これからテーブルの上にあるガラスのコップに、五百円硬貨は貫通させるのだろう」と想定する感じです。

 文章(論説文)はまず、あるテーマで書かれた一冊の本(テーブル)の上にあります。その中で筆者は、多くの人が普通とか一般的だと考え、行っていることついて感じている疑問点や改善点を文章にし、読者に訴え掛けます。

よって第一段落は、問題提起(何が問題か)や問題の所在(問題の根底にあるもの)を示してある場合がほとんどです。
試験問題は原作(本)の一部ですから、問題提起や問題の所在の部分から切り抜いてきているともいえます。

本問の場合、カメラの使い過ぎではないか(問題提起)、それって現実の経験を浅薄[せんぱく]なものにしているのではないか(問題の所在)、が第一段落の内容となっています。

私は解説講義にてまず始めに、何についての話だったか?を聞きます。

受講生によっては黙ったままという場合もありますが、「カメラの使い方、もしくは写真はどう撮るべきかの話です。」等、”要するに“がいえるよう、日々指導を重ねております。

“要するに”をとらえようとしなければ、ただ設問の傍線や穴埋め付近の拾い読みになってしまいがちで、誤答を誘発してしまうからです。逆に、この”要するに”がいえるようになると、設問の正解率は飛躍的に上がります。

保護者様方は容易に文章のテーブルを想定することが出来たことでしょう。

しかし、第一段落が「〇〇するには××すればよい」等の”要するに”がいえるための大前提となる部分だということを認識できていない中学生は多くありません。当塾の解説講義では、このような点から指導を始めております。

具体例や反対意見

 いい写真を撮るには、被写体をよく見ることが必要である。被写体として見るのではなく、自分がカメラを持っていることを忘れて、風景や人間に接しなくてはならない。風景や人物を撮影するのではなく、自分の感動を撮影するのだと思わなくてはならない。カメラを離れて現実の経験に投入し、感動があった場合にそれを記録するためにカメラを構えるのである。記録に値する経験や感動がまずなければならない。感動があれば、それを記録し表現するために注意深く撮影する。それは日記を注意深くいい文章で書こうと努力するのと同じである。そしてまた、感動を表現するために被写体を注意してみれば、それによって、対象がいっそうよく見えてくる、ということもあるだろう。日記を書くことでその日の感動がいっそう深められるようなものである。

ここまでが第二段落で、これ以降は筆者の考え方を読者に説得していくための具体例、それに対する反対意見等が示される場合がほとんどです。
うまく筆者の考え(流れ)に乗っかっていければ充分です。

この段落では「いい写真を撮るには」という出だしで、第一段落での写真はむやみやたらと撮ればいいというものではないという筆者の主張が具体的に展開されていきます。要約しますと、

被写体をよく見る(カメラを持っていることを忘れるくらい)
      ↓
現実の経験に投入し、感動があった場合にそれを記録するためにカメラを構える
      ↓
写真が、その日の感動がいっそう深められる日記ようなものとなる

というのが筆者の考え(主張)だということがわかります。

この文章の結論orまとめ

 写真は現実を思いおこすためのメモあるいは日記のようなものだから、それによって記憶を新たにし、感動を豊かにするために利用しなければ意味がない。そこで整理というものが大事になる。整理がよくできていて、見たいと思う写真が簡単に見られるというふうであれば、楽しかった過去に繰り返し遊ぶことができる。これは大きな楽しみである。

 最終段落は、結論やまとめとなります。本問では手前の段落ですでに「感動がいっそう深められる日記ような写真=いい写真」と結論が出ており、それをきちんと整理しておけば繰り返し感動することができる…という風なまとめになっています。

別の見方をすれば、設問で大きな楽しみとは何かまでを設問とするために、出題者がここで文章を切ったともいえます。

つまり最終段落は、結論やまとめだから重要というだけでなく、特に最終行から3~5行は解答の要素となるものが含まれているという意味でも重要で、受講生には問題用紙に穴が開くぐらい読み込むよう指導しております。

ちなみに設問では「大きな楽しみとは何か、簡潔にまとめよ」聞かれ、
その模範解答は、下線部の直前の表現を使った『写真をみて、楽しかった過去に繰り返し遊ぶこと。』でした。

保護者様へ―お伝えしたいこと

入試の国語への理解

以上のような文章を読んで、設問に答えるという実際の入試において、タイムリミットは約12~3分です。よって模試の問題も、入試に近づくにつれ本文は少しずつ長くなっていきます(設問の数は、最新の入試問題と変わりません)。

要するに、入試の国語では、初見の文章を読み解く速さと、設問への正確性が求められます。

これに対して、学校での国語の学習(読解)は文章内容の説明を受けて、それを定期にテストされるというものです。

つまり定期テストでは説明内容を暗記しているか重視されているのに対し、模試ひいては入試では

①初見の文章に対する適応力や柔軟性
②設問文に対する判断力や注意力

等が必要とされます。

よって、学校の国語の成績はパッとしないけど、模試での国語の成績は良いというように、現場での集中力を存分に発揮にする中学生もいれば、逆の中学生もいます。

両方良ければ問題ないのですが逆の場合、すなわち模試での成績が良くない場合は、要注意です。
練習(演習)量が足りていないのか、もしくは『だいたい読むの苦手やし…』等の精神的な甘えがあるのか、不振の原因を早期に究明してください。この点に関して、通われている塾に面談を申し出てみるのもよいでしょう。

国語は入試日の一時間目で、その出来がその日全体を左右しかねない重要な科目です。しかし、読解力ひいては試験現場での集中力はすぐに身につくものではないので、とにかく早めの原因究明と対処が必要です。

この点、前回記事でも述べましたわかろうとしていない態度等は、そもそも受験勉強という土俵にも上がっていないわけで、塾や御家庭で強く注意すべき(諭していく)点であると私は考えております。

日常生活において

今回の題材での解説講義で私は、インスタやFacebookにアップするために、スマホで撮影しまくる人を例に挙げました。『あー、そういう人いるいる』と、現状認識に対する受講生の反応はよかったです。

しかしこの現状認識から彼らは、本文の主題(むやみやたらな撮影が経験を浅薄にする)へとリンクしていませんでした。ゆえに、各設問の正答率もあまり良くなかったです。

そこで私が『あれ困るんよねー。友達と担々麺食べ行った時、やられたんやけど、せっかくバリ硬で頼んだ麺が伸びたわけよ。初担々麺への感動が浅薄になってしまったよ。』と自らの経験談を話すと、そこでやっと本文の主題につながったようです。

私は、このような講義内容となった原因の一つを、大人を含む世の中全体にこのような撮影の風潮があって、勿論その中にいる中学生の大半は、撮影という行為の意味をわざわざ考えたりしない点にあると考えました。

確かに、時代の流れによって撮影という行為は、SNSにアップするための手段と考えるのが主流となってきているのかもしれません。

しかし、本来の目的(その場を経験や感動し、楽しむこと)はどこに行ってしまったのでしょうか。先の私の友人の例にしても、本来は初めての店の担々麺を味わいに行ったはずで、『担々麺、なう』と題した写真を撮ることが目的ではなかったと思います。

このことから私は、現代の課題として、我々大人の一人一人が今一度、自分の行動の意味(周りへの影響等)を見直さなければならなくなったと考えております。

そうでなければ、中学生の中にはただただ純粋な気持ちで日常の大人の行動を真似している者もいて、いざ本記事のような価値観を訴えてくる論説文に出くわすと、そもそも何をいっているのかがわからないという場合が多くなってきていると思うのです。

まとめ

いかがでしたでしょうか。
以上、模試で出題された題材を基に記事を進めてまいりましたがこの文章は、国語(現代文)への理解だけでなく、読み方・考え方次第では普段の我々大人や御子息の生活態様にも絡んでくる深い論説文だったように思います。

担々麺が伸びたくらいなら笑い話で済むと思うのですが、2018年5月故西城秀樹さんが出棺される際、スマホ片手のに見送る一般参列者に違和感を感じた人は少なくないはずです。

『みんながしているから』ということには何の説得力もなく、むしろ少数意見や従来の価値観に対する思考が、古文・現代文を含む国語や継承されるべき日本の文化<への深い理解に繋がると私は考え、本記事を終えたいと思います。

最後までご覧頂き、有難うございます。

これからも塾の運営上気づいたこと等、記事にしてまいります。
どうぞよろしくお願いします。

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長澤 倫康 (ながさわともやす)

長澤 倫康 (ながさわともやす)

藍洋塾の代表者兼、文系科目の担当をしています。 司法試験受験を重ねる傍ら学習塾に勤務し、子供達とふれあう中で教育に熱意を抱き、2012年に福岡市西区今宿駅前で開業しました。 現代の子供達に無限の可能性を感じつつも、日々起こる様々な問題に対し実力を発揮できていない実情を、社会に問いかけるべくブログを展開してまいる所存でございます。

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